2017-01-08,Sun.

刃物を引いて手首を切ることを想像していつも気分が悪くなります。肌に押し当てただけで肉まで切り裂くことができるのは特殊な研がれかたをした刃物だけでしょう。普通の包丁や剃刀で手首を切るときには必ず刃を引かなければなりません。刃物を持った手を手前に引くという行為の悍ましさ。首のうしろにふっと温度のない恐怖が触ります。脈を取るような格好で手首に指をあて、どのように切るのがよいか考えます。角度を間違えて、血管に辿り着く前に骨に当たったりしてはコトです。手首を内側にねじり手のひらをうしろに倒すと二本の骨が裏側にあつまり手前には柔らかい部分が押し出されることを確認します。縮んだ筋肉は弾力を持ち、これを断つ際にはぶつりと音がするのだろうか、断面はどんなだろうかといろいろな考えが浮かびすこし楽しいような気持ちになります。薄い刃物が筋や筋肉や血管を通り過ぎこつりと、あるいはぎしりと骨に当たることを想像すると、それだけで手のひらに力が入らなくなります。さらに鶏のささみに包丁を入れることを想像してみます。肉の流れと直角に刃を入れた場合切断するのは容易とは言えません。くらりと気が遠くなります。やはり手首を切ることは建設的効率的な自殺方法とはいえない。けれど自分に死ぬのは怖いことだ死ぬ試みは高い確率で失敗する、と刷り込むにはやはり手首を切る想像が一番です。

 

 

2017-01-05,Thu.

私の記憶は狂気に満ちている。文章化されていない記憶はどれも断片的で悪夢みたいに唐突だ。頭の中に瞬間的に投影されるイメージはどれもひどく私の心を掻き乱す。それらは連続的でなく時間的でなく何らかの意味を持つこともない。狂気だけが満ちているようにおもえるのだ。

 

 

私の住んでいる土地から隣の地区に行くために2つの道がある。1つは国道、もう1つはまた別の山の方の地区を通って行く方法。国道にはもちろん歩道があって、遠いけれど隣の地区まで歩いて行くことができる(はずだ)。でも一箇所だけほんの50メートルくらい歩道が途切れている場所がある。線路と立体交差していてそこだけ道幅が狭いのだ。歩道橋のようなものはなく、近くで並行する代わりの道もなく、徒歩の道が完全に絶たれている。その立体交差の手前には空き地が広がっている。枯れたすすきで覆われていて、とても人間が歩けるような場所ではない。とても大きな空き地だ。その向こうに小川が流れていて、川の更に向こうには薄暗いひと気のない団地がある。団地の背後には山が迫っている。2016年の早春、私はこの空き地を一生懸命横切ろうとしていた。横切って団地へ向かおうとしていた。すすきをかき分け踏み分け、橋の架かっていない小川をどうやって渡ろうかと考えながら。団地に知り合いなんていない。あのときのわたしはいったい何をしようとしていたのだろうか?前後の記憶は全くない。これは夢ではない、現実に私が体験したことだ。

2016-12-28,Wed.

この1ヶ月間ずっと、言葉が離れてゆくのを感じていた。私の言葉は醜く実用的になり攻撃的になり空虚なはりぼてとして私を苦しめた。私は自分の言葉に現実的な実用性が宿るのを嫌う。言葉が実用的になるというのは人間としての関わりあいに囚われるということだ。そのようになってまで延命をはかる意味はどこにあるのだろう?風の匂いや温度による世界の輪郭の幻影を感じられずに生き存えて恐怖と悲しみと苦痛の香りだけが残る濁った微温湯に耳まで浸かり………

2016-12-10,Fri.

ときどき足を踏み外して暗い沼に呑み込まれる。

 

いつも〈大丈夫〉なつもりでいる。生きていけるような気がする。色々やりたいことがあるような気がする。心にひやひやと迫ってくるものに気づいてはいけない。自分が綱わたりをしていることに気づいてしまったら、落ちる。

 

落ちる。落ちる。落ちる。生きるのをやめなくてはならないと感じる。今までに何度もシュミレーションした首吊りのイメージが過ぎる。涙がとめどなく流れる。

 

 

2016-11-30,Wed.

早く早く早く早く早く早く早く早く!早く終わって。

私は一体いつまで暮らし続けなければならないのでしょうか。揺れて焦点の合わない視界も震えて力の入らない手足も痛み続ける胸も頭も、もう全部脱ぎ捨てたいのです。

 

ときどき気の迷いで病院に行こうかと思うことがある。

でも病院は嫌。今までに行った何軒もの病院の内装は覚えているけれど医者や看護婦の顔もそこで何を話したのか何をしたのかも全く覚えていない。ただ、すごく嫌な気持ちになる。病院はきらい。

何故だろう。

2016-11-24,Thu.

夜明け、冬の匂いを嗅いだ。目が覚めて、水っぽい雪が枝から落ちる音を聞いた。水道の水は鋭く突き刺さるようで、気づけば指先は棒のようだった。幸せだった。これが冬。これが冬。異常でも何でもいい。待ち望んだ冬の訪れに、心が高鳴った。

2016-11-21,Mon. その2

夢の中には自分というものがない。あるのは行動と閃きと恐怖だけだ。夢によっては行動も閃きも恐怖もなく、ただ多幸感だけがある、ということもある。夢でなく現実ならそれら全てがあるし、動悸息切れ眩暈、そして思考もある。夢の主である私にだけでなく、全ての人に。夢の中では必要なことしか見えないけれど(思考がないから見ようと思うこともない)、現実では全ての不要なものも見ることができる。

 

お茶のお点前も、夢と似ている。そこには行動しかない。行動と肉体と、肉体の一部である茶道具。私にはまだ「茶の心」などというものはわからない。そんなものがあるということも信じられない。私には行動と形式こそがその「心」であるように思える。お点前の最中に精神が割り込んでくる隙間があるようには思えない。

「形式に囚われず自由にお茶を楽しむ」などと言う人がいるが、私にはそれはわからない。お茶で形式以外の何を楽しむというのか?形式と無我の動作による美こそがお茶の楽しみではないのか。

私がこのように考えるのは飲み物としての抹茶が好きではないからかもしれない。私はコーヒーやお茶(紅茶緑茶烏龍茶ハーブティー等々)といった抽出する飲み物が好きだ。抹茶やココアは好んで飲もうと思わない。抹茶も抽出された形式だと考えることによって辛うじて楽しめるけれど、形式抜きで飲めるほど好きじゃない。

でもハーゲンダッツの抹茶味は好き。

 

 

初夏から庭の大きな甕で飼っている丹頂コメットのコメットちゃんが冬を越せるかどうか心配している。水槽に入れて部屋飼いにしようか。欲しい水槽とその他の設備を揃えるとかなり阿呆らしい額になるので踏み切れていなかったが、コメットちゃん一匹だけなら2千円くらいのスターターセットを買ってみるのもアリかもしれない。北野の金魚屋にいたような鯉のように大きくて宝石みたいに美しい夥しい数の金魚たちと暮らすのはおばあさんになってからでもいい。とりあえず一匹育てあげたい。