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2017-01-30,Mon.

ときどき自分の材質が何なのかわからなくなる。おそらく「人間の皮膚」とか「人間の筋肉」とか「人間の脂肪」とか「人間の骨」とかそういった類のものでできているのだろうなということを理解するのは簡単だ。でも青緑がかって不透明な直径10センチくらいのガラス玉と象牙の箸と冷たい水蒸気と狸の毛皮でできているのだったら嬉しい。いや、半分そう信じているのだ。

2017-01-17,Tue.

昨晩は部屋を真っ暗にしてイヤホンでビートルズの「サージェント・ペパーズ」を出せうる限りの大きな音で聴いた。世界を遮断せねばならないと感じた。壊れる前に意識をやらなければならないと。「サージェント・ペパーズ」は私に極彩色の感覚を与えてくれる音楽なのに、目の前の闇に浮かぶのはダメになった青カビチーズのような色の単調な靄や網だけだった。音の色が見えないことが悲しくてとめどなく涙が流れた。

2017-01-12,Thu.

重くるしくて厳かで静謐で、でも肌と交るととろけるように甘い香りが好き。微かに脈打つように空間を支配するのだ。

2017-01-10,Tue.

水晶体の内側から世界を描写し続けるだけではだめなのだ。心の中では本当は、私は私の言葉を自分を描写するために使うだけではいやだと思っているに違いないのだ。私の言葉は以前とは変わってきている。どうやったら私はこの世界の中空に浮かぶ2つのちいさな窓を脱ぎ捨てて世界の内側から世界を描写できるようになるだろう

2017-01-09,Mon.

私は昨晩、血液のことを考えもしなかった。我ながら実に不思議なことだと思う。手首を切ることを考えるときにまず第一に考えなくてはならない問題は血液のことではないのか。途中で固まらないようにアスピリンを飲むとか水に漬けるとか、皮膚を切り裂いた瞬間に盛り上がる真紅の玉を目にした後さらなる深みに刃を進める勇気が自分にあるのかとか、普通はそういうことを想像するはずではないのか。

 

私は自分の身体の中を血液が巡っているということを、信じていないのかもしれない。いや、信じていないのだ。皮膚に傷がつくと血が流れるということをもちろん私は知識としてあるいは実体験として知っている。しかしそれはそれだけのことであって、私は自分の身体を血液が巡り血液が満たしていることを信じてはいない。

 

何年か前、デザイン用の鋭いカッターナイフで左手の親指をひどく傷つけてしまったことがあった。カッターナイフは爪に当たって止まった。爪の側面の、どちらかというと腹よりの肉にべろりと切れ込みが入っていて、もちろん傷の周りは血みどろだったのだけれど、肉はまるで血なんか通っていないみたいに鮮やかなピンク色に光っていた。血を舐め取りながら観察するとジワリと薄い血液が肉から水彩画が滲むようにして滲み出してくるのが見えた。私の血はさらさらと水っぽくて味もにおいも薄くいつまで経っても固まらないように思えた。とても痛かったがその痛みも現実のものとは思えなくて、血の滲み出すさまを眺めるのはなんとも言えず楽しい気分だった。それでもその部分の肉がくっつかなくなっていつまでも巨大なささくれのように指の脇でぶらぶらとする様子をありありと思い描いてしまって恐ろしくなり、私は絆創膏で傷を封印した。かれこれ1ヶ月ほどは絆創膏を(もちろん取り替えはしたが)巻き続けていたのではないか。今はしっかりとくっついていて、目を凝らすとわかる程度の薄いちいさな傷が残るばかりである。

 

でもそのときだって私は、自分が生きていることや自分の身体に血液が巡っていることや、はては左手の親指が自分の身体の一部だということを実感したりはしなかったような気がする。痛みも血液のとめどなく滲み出す映像もじつに表面的なものだった。

 

 

私は眼球とその奥にあるものだけが自分そのものだと感じる。眼球に映るものは自分の肉体を含めてすべて風景でありせかいだ。眼球はせかいを覗く窓みたいなもので、私は望もうと望むまいとせかいを覗き続けなければならない。せかいは窓の外にしか存在せず、窓の内側には何も存在しない。窓から離れ無味無臭の虚無の中にゆっくりと身を沈め溶けてゆくことができさえしたら……

 

 

 

 

 

 

 

 

しかし動脈を切ったら見たこともない量の血液が勢いよく迸るのだろうかと考えれば気が遠くなるような思いがするのも確かなのだ、矛盾?

 

 

 

 

2017-01-08,Sun.

刃物を引いて手首を切ることを想像していつも気分が悪くなります。肌に押し当てただけで肉まで切り裂くことができるのは特殊な研がれかたをした刃物だけでしょう。普通の包丁や剃刀で手首を切るときには必ず刃を引かなければなりません。刃物を持った手を手前に引くという行為の悍ましさ。首のうしろにふっと温度のない恐怖が触ります。脈を取るような格好で手首に指をあて、どのように切るのがよいか考えます。角度を間違えて、血管に辿り着く前に骨に当たったりしてはコトです。手首を内側にねじり手のひらをうしろに倒すと二本の骨が裏側にあつまり手前には柔らかい部分が押し出されることを確認します。縮んだ筋肉は弾力を持ち、これを断つ際にはぶつりと音がするのだろうか、断面はどんなだろうかといろいろな考えが浮かびすこし楽しいような気持ちになります。薄い刃物が筋や筋肉や血管を通り過ぎこつりと、あるいはぎしりと骨に当たることを想像すると、それだけで手のひらに力が入らなくなります。さらに鶏のささみに包丁を入れることを想像してみます。肉の流れと直角に刃を入れた場合切断するのは容易とは言えません。くらりと気が遠くなります。やはり手首を切ることは建設的効率的な自殺方法とはいえない。けれど自分に死ぬのは怖いことだ死ぬ試みは高い確率で失敗する、と刷り込むにはやはり手首を切る想像が一番です。

 

 

2017-01-05,Thu.

私の記憶は狂気に満ちている。文章化されていない記憶はどれも断片的で悪夢みたいに唐突だ。頭の中に瞬間的に投影されるイメージはどれもひどく私の心を掻き乱す。それらは連続的でなく時間的でなく何らかの意味を持つこともない。狂気だけが満ちているようにおもえるのだ。

 

 

私の住んでいる土地から隣の地区に行くために2つの道がある。1つは国道、もう1つはまた別の山の方の地区を通って行く方法。国道にはもちろん歩道があって、遠いけれど隣の地区まで歩いて行くことができる(はずだ)。でも一箇所だけほんの50メートルくらい歩道が途切れている場所がある。線路と立体交差していてそこだけ道幅が狭いのだ。歩道橋のようなものはなく、近くで並行する代わりの道もなく、徒歩の道が完全に絶たれている。その立体交差の手前には空き地が広がっている。枯れたすすきで覆われていて、とても人間が歩けるような場所ではない。とても大きな空き地だ。その向こうに小川が流れていて、川の更に向こうには薄暗いひと気のない団地がある。団地の背後には山が迫っている。2016年の早春、私はこの空き地を一生懸命横切ろうとしていた。横切って団地へ向かおうとしていた。すすきをかき分け踏み分け、橋の架かっていない小川をどうやって渡ろうかと考えながら。団地に知り合いなんていない。あのときのわたしはいったい何をしようとしていたのだろうか?前後の記憶は全くない。これは夢ではない、現実に私が体験したことだ。