2014-06-02,Mon.

午後からずうっと指先が痺れているので、不安になってくる。

医者に行って、完全な鬱病だと言われて、分裂症の可能性もあるなんて言われて、そんな類の薬を飲み始めてからもうそれなりに時間が経つ。いつもへらっと誤魔化してたのだけど、このお医者さんには頭痛の相談で行ったので油断して、色々話してしまったのだ。
アスピリンを毎日飲んでいると言ったら、お医者さんはそれは既にヤク中だと言って、かわりに7種類もの薬(鬱病の薬数種と分裂症の薬と胃薬と睡眠薬)を処方した。7倍パワーのヤク中になってしまったと思ったけど言わなかった。
悲しくなくなった。恐怖も消えた。とても気持ち悪い。悲しみや恐怖が消えるのと同時に、感覚も鈍った。今は、風が吹いてもあの複雑な夏の香りを感じることができない。口の中は常に変な味がしているし、騒音の中に聞こえる静寂の音はますます酷くなった。風景は感動を呼ばない。少し前まであんなにもうつくしいと感動していた、建物の谷間から見上げる空はただの曇天だと気づいてしまった。
父、は、心配してくれて、すぐに治ると言う。一緒に散歩してくれる。気づいてやれなくてごめんなと言う。私はどうしたらいいのかわからない。「治」ったら、私はわたしでなくなってしまうのではないか。げんに、今、自分が自分でないような違和感はつねに付き纏っている。

きょうお昼ごはんに、父のつくったトマトソースのパスタを食べた。美味しかった。ローズマリーの香りが効いていて、夏を想った。そういうのはわかるのだ。「ふつう」人がそういうものを知覚するように。

もし私が病気なのだとしたら、その原因は紛れもなく、感覚、あるいは感受性の異様な鋭敏さだったのだろうと思う。そしてその感覚はたぶん、私のアイデンティティそのものでもあった。


一日をただ胃が痛い頭が痛いと思って過ごすのはつまらない。でもとても楽だ。悲しんで苦しんで世界を感じながら痛みに苦しむのと、ただ痛みを感じるだけ、どちらが良いだろう?

私は以前、まだ「Fiat Lax」を書いていた頃、「世界を知覚したくありません」といった。でもそれが半分実現した今、わかった。世界を知覚せず世界の中に存在することは苦痛だ。死にたいけれど、世界を知覚していたい。永劫に。知覚するだけの存在になりたい。それは即ち神になりたいということかもしれない。世界の中に存在しないものになりたい。あるいは、存在するだけのものに。