2014-10-13,Mon.

作家を目指そうかなって、今ふと考えた。コンプレックスから将来の夢を決めるなんて、馬鹿げているけれど、ここから抜け出すにはそれしかないような気がしている。こんなくだらない、吐き出すためだけの文章ではなくて、人に読ませるための文章を書く練習をしてみよう。

私には、書きたいことがない。
私には人に自分の考えを伝えたいと思った記憶がない。わかってもらえないならそれでかまわないと、思い続けてきた。そうしているうち、自分の中には何もないのだと、思いはじめた。私は表面だけの人間で、中身は空っぽなのだ。仕方ないと思っていた。しかし、表面だけの人間でも何かを作り出すことは可能なのである。アンディー・ウォーホルは表面だけの人間で(彼が自分自身を表面だけの人間だと表現したのはただのポーズだと言う人もいるけれど、私は彼はほんとうに表面だけの人間だったのだろうと考えている。それだからこそ私は彼の作品を愛するのだ)、しかし彼は表現した。彼だけの、空っぽの世界を作り出した。私は私の空洞を表現すればいい。

それとは別に、私は数学を勉強したい。私は言語としての数学を正しく読みこなせていない。私は文系の人間を馬鹿にする訳ではないが、しかし、本音では、数学を勉強していない人間が哲学をやるなんてちゃんちゃらおかしいと思っているのだ。とくに、私のように能力のない人間は。桂裕一郎という人(駿台予備学校の数学講師だ)がたしか、世界を動かす四つの車輪は文学、哲学、数学、音楽だと思うと言っていたと記憶している(或いは「三つの車輪は文学(哲学)、数学、音楽」だったかもしれないが)。私の恋人であるJさんは、「数学というのは一部の天才のための学問で、あなた(私、玄冬)には哲学のほうが向いている」と言ったが、彼は数学の一つの面しか見ていない。否、彼は数学が世界中に溢れる「教科書」の半数を読み解くための道具であると気づいているはずである(買いかぶりすぎだろうか。私はJさんを絶対視しすぎている)。英語でもラテン語でもなく、私は数学という言語を学ぶべきなのだ(英語はもうあるていど読めるけれど(それをいえば数学だってあるていどは読めるのかもしれないけれど))。私は問題を解くことに興味がない。問題を解くことができたところで一縷の達成感だって得られることはない。私は「読む」ことができれば満足なのだ。小説で言えば私はいま「傍観者」であり「語り手」であり「ワトスン君」なのであろう。
私はこれから「シェパード医師」にならねばならないのかもしれない。読むだけであってはならないのかもしれない。語るだけであってはならないのかもしれない。或いはそうありたくないのかもしれない。

例によって自分が何を書いているのかわからなくなってきた。何が「他人に読ませるための文章を書く練習を」だ。スマートフォンでこの文章を書いているのがいけないのかもしれない。画面が狭いから全体を見渡すことが困難なのだ。紙に書くことにしようか。