2014-10-15,Wed.

川上未映子「世界クッキー」。
わかる、という感じはするのだけれど面白いというわけでもなく。「発光地帯」とおなじくらいには好き(?)。
この人のエッセイには太宰治樋口一葉小林秀雄がよくでてくるのね。わたしは樋口一葉読んだことない(あれ?たけくらべは読んだことあるのだっけ、なんとなく内容を知ってる気がする・・・)。

昨日の晩わたしのブログを読んだJさんが「あなた「発光地帯」なんてあんなもの買って読んだんですか」と笑った。わたしはまだとうぶん川上さんの文章を読んでみるつもりでいるのです。彼女の文章に不快感はないから(でも私は大阪の言葉は苦手だ)。彼女に恨み(?)を持つ人(Jさんをふくめ)にわたしは何人か会ったことがあるが、わたしなぞは、そういうのって醜い、と思ってしまう。自分の言葉なり考えなり存在なりを勝手に盗まれるのはそれは不愉快なのだろうなとは思うのだけれど、しかし醜いと思うのはしかたないでしょう?わたしは完全に部外者で、部外者からすれば恨みなんて、それほど醜いものはないのだ。あるいはたんに、わたしに「恨み」という感情が理解できないと、いうだけの話なのでしょうか。理解できないといえばわたしは、<私>というものを理解できなくって苦しんでいるのです(永井均氏の本をまともに読んだことがないからかもね)。もちろんそんなもの理解できる必要もないしあるいはむしろ理解できないほうが正しかったりもするのでしょうがしかし、つらい。これはほんとうに理不尽なつらさだ。わたしは自分が感じている恐怖を理不尽な恐怖と表現するがしかしこの恐怖を実感としてはたいして理不尽だなどとは思っていないのです、それに対してこのつらさは心の底から理不尽だと思う。読んですらいないのになにが理解できないことがつらい、だ。ばーか。ばーかばーかばーか。でも、わたしは現実、自分の存在をすべての「永井信者」より下位に置いているの。わたしが理解してないものを彼らは理解してるのだから。なんだかとてもへんなお話ですね。(私がここで理解と書いたのは「永井の思うとおりに誑かされる」ということ。あるいは彼の言っていることを信じられるような状態にあること。けしてその本質を理解する、ということではありません)
ところで恨む、っていうのはその「恨む人」のなかで「恨まれる人」はあるていどの大きさを持っていたということでしょう(少なくとも物質的不利益があったわけではない場合においては)。プラトニックな感情を彼女に対して抱いていたなんてふざけるな私にそんなこと言わないでよ小学生の頃アルセーヌ・ルパンのシリーズのの熱心な読者であった私にとってプラトニックという言葉がどれほどの意味を持つのかに配慮してくれたっていいじゃない、などと逆恨み的な感情を持ってしまうわたしのなんという醜さよ。