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2014-12-16,Tue.

松井冬子の画はその様式美によって結局「きれいごと」に終わってしまう、と言っている人がいた。私は「きれいごと」に終わることこそが本質的なのだと思う。芸術というのは「きれいごと」に終わるものなのだと思う。「きれいごと」でない芸術など存在しない。いかに「きれいごと」を引き出すか、ということこそが芸術なのではありませんか?「芸術」と「きれいごと」は切り離せない。男性用便器は「泉」と呼ばれたそのしゅんかんに「きれいごと」以外のなにものでもなくなる。それにしても、「様式美」によって「きれいごと」に終わる、というのはおかしい。芸術においてその二つに如何な関連性もない。この人は言葉に引き摺られているだけなのだと思う。

「ゲイジュツ」とかいう言葉、ほんとは使いたくないのだけどはじめに挙げた言葉に少しむっとしたので何か言おうと思って、そしてそれを言うにはどうも「ゲイジュツ」という言葉を使うのがお手軽でいいかなと思った次第であります。