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2015-01-17,Sat.

センター試験。閉所恐怖症故に試験が怖くて受けられない。自分の意志でするっと簡単に出てくることのできない密閉された空間が怖いのだ。電車、高速道路、エトセトラ。特に試験会場には人が鯖寿司のごとく詰め込まれている。吐きそうだった。防御のために今までやったことがないくらい厚塗りした。日焼け止め、無色の下地、白い下地、リキッドファンデ、ルースパウダー、ルースパウダーファンデ、最後にハイライトがわりの白っぽいプレストパウダー。

道具箱の中の、いろいろな道具について考えてみよう。そこにはハンマー、やっとこ、のこぎり、ねじまわし、ものさし、にかわつぼ、にかわ、くぎ、ねじ、がある。これらのものの機能がさまざまであるように語の機能もさまざまである(類似もまた、あちこちに見出される)。いうまでもなく、我々を混乱させるのは、いろいろな語が話されるのを聞いたり、文書や印刷物の中で出会ったりするとき、それらの語の現れる姿が同じように見えるということである。というのも、それらの語の使用の仕方はそれほど明瞭には現れてこないからである。とりわけ我々が哲学をしているときにそうである。     (『哲学探究』1部11節)
人は或る動物が怒り、恐れ、悲しみ、喜び、驚いているのを想像することはできる。だが望んでいるのを想像することは?  では、なぜできないのか。                  犬は自分主人が戸口にいると信じる。しかし犬は、主人が明後日帰宅すると信じることができるか。ーーそれではこの場合、犬はができないのか。ーー私の方はどうやってそれをするのか。ーーこれに対して私はどう答えるべきか。               話すことのできる者だけが、望むことができるのか。或る言語の使用に通じている者だけが。すなわち希望の諸現象はみな〔話すという〕この錯綜した生活様式の様態である(或る概念が人間の筆跡の特徴を目指したものなら、その概念は書くことをしない存在者に対しては適用されない)。            (『哲学探究』2部1章174ページ)

「意味」という語が用いられる多くの場合についてーーそのすべての場合ではないにしてもーーこの語を次のように説明することができる。すなわち語の意味とは、言語におけるその使用のことである、と。           そして名の意味は、ときとして、その担い手を指し示すことで説明される。           (『哲学探究』1部43節)

私としては、こうした類似性を特徴づけるのに「家族的類似性」という言葉にまさるものは思いつかない。というのは、家族の構成員の間に見られるさまざまな類似性、例えば体つき、顔つき、眼の色、歩きかた、気質、等々も同じように重なり合い、交差し合っているからである。ーーそこで私は「ゲーム」は一家族をなす、と言おう。         同様にして、例えば数の種類も一家族をなしている。我々が或るものを「数」と呼ぶのはなぜか。おそらくそれが、これまで数と呼ばれてきたものの多くと一つのーー直接的なーー類縁を有するからであろう。またそのことによって、同じくそう呼ばれる他のものと間接的な類縁関係を結ぶことになるからである、といえよう。そして我々は、繊維と繊維を縒り合わせて一本の糸を紡ぐのとちょうど同じようにして、数という我々の概念を拡張していくのである。実際、糸の強さは或る一本の繊維が糸の全長を貫いている点にあるのではなく、たくさんの繊維が隙間もなく重なり合っていることによっているのである。          しかし、もし誰かが「だからこれらすべての構成物には或る共通のものがある、ーーすなわちこれらすべての共通性の選言という共通のものが」と言おうとするならば、ーー私はこう答えるだろう。君は言葉を弄んでいるにすぎない、と。それならこうも言えるはずであろう。何か一つのものが糸全体を貫いているーーすなわちそれは、諸繊維の隙間のない重なり合いという一つのものである、と。          (『哲学探究』1部67節)

すべて(平凡社ライブラリーウィトゲンシュタイン・セレクション』黒田亘編)より