2015-06-03,Wed.

また死にたくなったのか?とか、死にたいのか?とかいった言葉そのものが私を死にたくさせる。けっきょくその程度にしか思われていないのだ。ただ死にたい、のだと。ほんとうは私の中には「死」という文字はない。それはただの表現にすぎない。私の中にあるのは「滅」であり「消」だ。(私は魂というものの存在をほんとうには信じていない。だからいつも魂のことを忘れてしまう。空海も、魂の存在を信じていなかったのではないかと思う。信じていたなら、あんな教えを説かなかったはずだ。)    私の「死にたい」(そのような言葉を使うとすればだが)は靴擦れのようなものではない。私は常に死にたく思っている。美しかろうが穢らわしかろうが、目に飛び込んでくる耳に飛び込んでくる肌に触れる鼻腔を擽る全てが私にとっては苦痛だし、美味しかろうが不味かろうが吐き気をもよおさずに飲み込める食べ物は存在しない。このように書いても、ただの表現だと思われるのだろう。それでいいのだ。私は好き好んでものを食べているように見えるだろうし、好き好んでものを見たり読んだり聞いたりしているように見えるだろう(この文章を読んでもなお)。いつかこのまま苦痛を忘れてしまえばいい。加納クレタみたいに(今までずっと私は村上春樹を避けて通ってきたけれど(なんとなく嫌な感じがしていた)、最近少し読んだ(読んでみたら、思っていたほど悪くもなかった)。一昨日はねじまき鳥を半分くらい読んだ。ねじまき鳥に書いてあることは私にとってはほとんど全てが現実なので驚いた)。