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2015年11月15日(日)

精神分析医の藤田先生と食事をした。昨日いきなりこちらから誘ったのに快く受けてくれたばかりでなく鰻をご馳走してくださった。
もう1年以上の付き合いだが私はフジタゼミでは全く発言しないしちゃんと会話したのはこれがはじめてかもしれない。正直そこまで親しくない私がいきなり先生を食事に誘うのも異様だし私と先生とがサシで話をするのも異様だしとにかく異様で異様なシチュエーションだったがそういう違和感が全くなく十年来の友人といるような感覚がありとてもふしぎ。先生は私のことを青春時代の自分を見るようだと言ったが(話を聞いたら好きな紅茶まで一致!)その類似が関係しているのか。私は基本的に人間と話すのが苦手だから(だからJさんとも猫語で会話する)もうちょっとお話したいななどと思うことは滅多にないのだけれど今日は思ってしまった。他にそのように感じたことがある人は中学高校の数学のA先生、駿台のK先生S先生、私の長年の片想い相手であるTさん、父の友人で香水を作っているKさん、行きつけのコーヒー屋の店主Sさん(この人とはほとんど会話したことないけど)(こうして書くと結構多い?)。オモシロイことに全員に驚くギンギンの共通点がある。恐ろしく強いコダワリの持ち主であること、他者を拒絶とまではいかないが遮断していること、それなのに少し人間に期待していること、知識が深いこと、声質が静かであること(たんに静かに話すということではない)、ある特定の意味においてドン臭くないこと、アタマがおかしいこと、そして男性であること。
そういえば私はJさんを愛しているが恋はしていない。私はずっとTさんに恋をしている。私は私を見ない人間にしか恋できない。Jさんと私の関係は猛獣使いとトラの関係である。悲しみじゃない愛を実感として理解していないのにトラ的な振る舞いによって愛の擬態をしているの自分ですごく頭良いなと思う。私だけかな。
Tさんに恋することによって私は正気を保っている。この感情が「幸せ」のお手本である。この恋が恣意的につくりだされた感情かもしれないと考えることはとても恐ろしい(恋については私は自分自身をほとんど完全に騙しきっている)。
車に乗ると、モノたちがこちらに近づき重なり合い景色として飛び去ってゆく様子を完全に見届けなければならないと感じる。これは大友克洋の呪いかもしれない。
全てのモノの香りや感触や味や色や音や角度を完璧に記憶しなければならないと感じる。それらはいつも過ぎ去ってしまい記憶として残ることもない。
感じとれなかった記憶できなかったそれに対して心を動かさなかったそしてこの人格のものではない視点で理解することのできなかったすべてのものに謝罪を。
私は人間にあるいは心的なはたらきに期待していないけれど度々恋していると書くからそうは見えてないんじゃないかと思っていた。

この記事はちょっと良い感じの脱線。