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2016-08-26,Fri.

Dに捧げる三題噺

メルボルン 伊豆の踊子 香水」
私は早朝、タスマニア島に向かう船に乗るためにメルボルンの港に向かった。真っ黒に日焼けした快活な老運転手が言う、「旦那、今からでも遅くないですぜ、島に行くなら飛行機がいい。船に乗ったら丸一日、それこそ朝から晩まで波に揺られ続ける羽目になる。なんだってそんな前世紀の遺物にお世話になろうなんて思ったんです。あたしならごめんだね」。ラジオは延々と山火事のニュースを流している。「そら!こんなふうに晴れ上がって湿度の低い日に海の上を移動するなんて正気の沙汰じゃない、干物になっちまいますぜ!」。私は影のない真っ青な海を、大仰な名前(ブラック・ダイヤモンド号だとかカリプソの吐息号だとか)のつけられたちゃちなフェリーが枯葉のように漂う様を想像した。豪州でも有数の美しい大都市から世界のうちで最も閉ざされた地域のうちのひとつである魅力的な島に、そう簡単に飛び込めてしまっては面白くない。砂漠を渡るように海を越え、日が暮れかけてからシルエットだけになった野生の王国に上陸する。1日波の上で過ごしたせいで覚束ない足を降ろし、原初から我々のよく知る世界とは全く違う歩みをしてきた未知の土を慄きながら踏みしめる。明くる朝になってやっと、私は朝靄の中その世界の異様さを目の当たりにするのだ。蒸せ返るような緑の香り、朝露でさえ私を突き刺すような薫気を醸す…。「旦那!旦那!」運転手の呼び声で私は我に返った。甘い絶望のような濃密な香りは振り払われた。車は動きを止めており、道端に少女が立っている。ヒッチハイクだろう。運転手が私を振り返る。「旦那、あと30分もすりゃあ日が昇って吸血鬼でなくても塵になっちまう。旅に後ろめたい思い出を残したくないだろ?」私は頷いて、少女のためにドアを開けてやる。瘦せぎすで、こんがりと日焼けした東洋人だ。少女が黙って後部座席に滑り込んできたとき、あの夢の香りが鼻腔をくすぐった。私は目を見開いて少女の顔を見た。日焼けしてそばかすの広がる平面的な顔立ち、しかしその昆虫のような眼の美しさは…!星のない宇宙のような漆黒の瞳、どこまでもどこまでも透き通っているのに底が見えない。いつの間にかあの香りは消えていた。私は尋ねる、「チャイニーズ?ジャパニーズ?」「ジャパニーズ。アンド・ユー?」不思議な声だった。囁くように静かで、太古の巨石のような穏やかな冷たさを秘め、衣摺れのようにビブラートがかかる。私はその声を単純な英語の意味に分解するのが惜しいと思った。私は答えず、質問を重ねた。「どこへゆくの?君のような魅力的なジャパニーズがこんなところでヒッチハイクなんて、怖くないのかい?」彼女は私の無礼な態度に気を悪くしたようだった。日本人は気を悪くすると笑う、誰かからそう聞いたことがある。彼女は曖昧な微笑みを浮かべていた。細められた黒い瞳は朝陽を反射して涙を溜めたみたいに煌めいて、乾燥して魚の鱗のように見える若い唇は緩やかに弧を描いている。「アイ・ゴー・トゥー・ザ・アイランド、ユー・トゥー・ミスタ?」「イエス」。港に着くまでの1時間、私は彼女を質問攻めにした。彼女はそのすべてに丁寧に答えたが、私はほとんど理解していなかった。私は音楽を楽しむように彼女の声を楽しんだ。港に着くと老運転手が、意味ありげなニヤニヤ笑いを浮かべて私の肩を抱いた。「うまくやるんですな、旦那」。私は少し多めのチップを含んだ謝礼を彼の懐に滑り込ませた。
不安になるようなボロボロの渡し板を渡ってフェリーに乗り込んだ瞬間、少女の輪郭が急にはっきりしたような気がした。私はふと、彼女に名前を聞いていなかったのを思い出した。窓際に陣取った彼女の隣に腰を下ろしながら私は言った、「まだ名前を聞いてなかったね」。彼女は美しい響きの短い単語でそれに答えたが、私は聞き取れなかった。彼女にもう一度言って欲しいと頼んだが、何度聞いても私はその単語を発音することができなかった。彼女は少し寂しそうな顔をして窓の外に視線をやった。横顔を見て私は驚いた。彼女の瞳が深い青色に見えたのだ。はじめ私は彼女の黒曜石の瞳に海の色が映っているのだろうと思った。しかし違う。彼女の瞳は今確かに青いのだ。いつから青かった?私は思い出せない。こんなことがあるものだろうか?私はずっと勘違いしていたのか?彼女の瞳は初めから青かったのかもしれない。フェリーの中は観光客でごった返していた。黒くて重そうなカメラをぶら下げた東洋人、半ズボンで毛むくじゃらの足を露わにしている巨大なドイツ人、お揃いのサングラスをかけたアメリカ人の金持ち夫婦…。出航した時分は皆浮き足立ってはしゃいでいたが、昼を過ぎるとお喋りをする者もいなくなった。どの顔も気怠げに変化のない波間を見つめ続ける…。夕方になってスコールが襲ってきた。青かった空も海も濁った灰色に変わり、境目がわからない。密閉されているはずの室内にも、あの雨の独特の香りや冷たい湿気が流れ込んできているようだった。古い蛍光灯が瞬き、不思議な浮遊感が船全体を包む。誰かが飲んでいるコーヒーの香り、フランス製の化粧品の香り、制汗剤の香り、潮の香り、雨の香り、埃の香り、大勢の人間の汗の香り、色々な香りが混ざり合って、なんともいえない感傷的な空気を生み出している。スコールが続く間に日が暮れ、雨音が聞こえなくなる頃には辺りは真っ暗になっていた。不意に肌寒さを感じ、私は周囲を見回した。何人か(多くは女性だ、)が上着を取り出して羽織っている。私もそれに倣った。船が港に着いた。白い蛍光灯で人気のない待合室が照らし出されており、オレンジ色の街頭が離れた暗闇の中に散らばっている。私はフェリーを降りてくる客の中からあの少女を探そうとしたが、見つけることができなかった。なぜ一緒に降りなかったのか、私は魔法の島に上陸したことで浮かれていた数分前の自分を恨んだ。そういえば船の中では…?私はいつまで少女のことを気にしていただろうか?少女の存在そのものが夢だったような気さえしてきた。私は1人で近くの安宿に入り、泥のような眠りについた。座っていただけなのに、自分でも驚くほど疲れていた。夢の中にあの少女が出てきた。船に乗って出航する私に向かって、埠頭に立った少女は何か白いものを振り続けている。辺りにはあの、蒸せ返るような夢の香りが立ちこめていた。目が覚めると、私の頬は冷たく濡れていた。夜明けの薄明かりの中で、夢の香りは消えることなく薄まることなく漂い続けた。