2016-11-21,Mon. その2

夢の中には自分というものがない。あるのは行動と閃きと恐怖だけだ。夢によっては行動も閃きも恐怖もなく、ただ多幸感だけがある、ということもある。夢でなく現実ならそれら全てがあるし、動悸息切れ眩暈、そして思考もある。夢の主である私にだけでなく、全ての人に。夢の中では必要なことしか見えないけれど(思考がないから見ようと思うこともない)、現実では全ての不要なものも見ることができる。

 

お茶のお点前も、夢と似ている。そこには行動しかない。行動と肉体と、肉体の一部である茶道具。私にはまだ「茶の心」などというものはわからない。そんなものがあるということも信じられない。私には行動と形式こそがその「心」であるように思える。お点前の最中に精神が割り込んでくる隙間があるようには思えない。

「形式に囚われず自由にお茶を楽しむ」などと言う人がいるが、私にはそれはわからない。お茶で形式以外の何を楽しむというのか?形式と無我の動作による美こそがお茶の楽しみではないのか。

私がこのように考えるのは飲み物としての抹茶が好きではないからかもしれない。私はコーヒーやお茶(紅茶緑茶烏龍茶ハーブティー等々)といった抽出する飲み物が好きだ。抹茶やココアは好んで飲もうと思わない。抹茶も抽出された形式だと考えることによって辛うじて楽しめるけれど、形式抜きで飲めるほど好きじゃない。

でもハーゲンダッツの抹茶味は好き。

 

 

初夏から庭の大きな甕で飼っている丹頂コメットのコメットちゃんが冬を越せるかどうか心配している。水槽に入れて部屋飼いにしようか。欲しい水槽とその他の設備を揃えるとかなり阿呆らしい額になるので踏み切れていなかったが、コメットちゃん一匹だけなら2千円くらいのスターターセットを買ってみるのもアリかもしれない。北野の金魚屋にいたような鯉のように大きくて宝石みたいに美しい夥しい数の金魚たちと暮らすのはおばあさんになってからでもいい。とりあえず一匹育てあげたい。