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2017-01-09,Mon.

私は昨晩、血液のことを考えもしなかった。我ながら実に不思議なことだと思う。手首を切ることを考えるときにまず第一に考えなくてはならない問題は血液のことではないのか。途中で固まらないようにアスピリンを飲むとか水に漬けるとか、皮膚を切り裂いた瞬間に盛り上がる真紅の玉を目にした後さらなる深みに刃を進める勇気が自分にあるのかとか、普通はそういうことを想像するはずではないのか。

 

私は自分の身体の中を血液が巡っているということを、信じていないのかもしれない。いや、信じていないのだ。皮膚に傷がつくと血が流れるということをもちろん私は知識としてあるいは実体験として知っている。しかしそれはそれだけのことであって、私は自分の身体を血液が巡り血液が満たしていることを信じてはいない。

 

何年か前、デザイン用の鋭いカッターナイフで左手の親指をひどく傷つけてしまったことがあった。カッターナイフは爪に当たって止まった。爪の側面の、どちらかというと腹よりの肉にべろりと切れ込みが入っていて、もちろん傷の周りは血みどろだったのだけれど、肉はまるで血なんか通っていないみたいに鮮やかなピンク色に光っていた。血を舐め取りながら観察するとジワリと薄い血液が肉から水彩画が滲むようにして滲み出してくるのが見えた。私の血はさらさらと水っぽくて味もにおいも薄くいつまで経っても固まらないように思えた。とても痛かったがその痛みも現実のものとは思えなくて、血の滲み出すさまを眺めるのはなんとも言えず楽しい気分だった。それでもその部分の肉がくっつかなくなっていつまでも巨大なささくれのように指の脇でぶらぶらとする様子をありありと思い描いてしまって恐ろしくなり、私は絆創膏で傷を封印した。かれこれ1ヶ月ほどは絆創膏を(もちろん取り替えはしたが)巻き続けていたのではないか。今はしっかりとくっついていて、目を凝らすとわかる程度の薄いちいさな傷が残るばかりである。

 

でもそのときだって私は、自分が生きていることや自分の身体に血液が巡っていることや、はては左手の親指が自分の身体の一部だということを実感したりはしなかったような気がする。痛みも血液のとめどなく滲み出す映像もじつに表面的なものだった。

 

 

私は眼球とその奥にあるものだけが自分そのものだと感じる。眼球に映るものは自分の肉体を含めてすべて風景でありせかいだ。眼球はせかいを覗く窓みたいなもので、私は望もうと望むまいとせかいを覗き続けなければならない。せかいは窓の外にしか存在せず、窓の内側には何も存在しない。窓から離れ無味無臭の虚無の中にゆっくりと身を沈め溶けてゆくことができさえしたら……

 

 

 

 

 

 

 

 

しかし動脈を切ったら見たこともない量の血液が勢いよく迸るのだろうかと考えれば気が遠くなるような思いがするのも確かなのだ、矛盾?